目が覚めてから、しばらく天井を見つめていた。動かなければ時間が進まないような気がして、ただじっとしていた。今日が最終日なのだ。小さな独り言で「ありがとう」と呟いて、いつもより重たい身体をゆっくりと起こした。
陳さんの「行ってきます」を、私は朝食を摂りながら「いってらっしゃい」と返した。今日は一万歩歩いたら帰って来ようと決めて、11時半に家を出た。遼寧街夜市の通りのお店では、店員の女性がいつもと変わらず迎え入れてくれる。90元だった控肉飯は95元に値上がりしていた。物価高であった。
今まで家の周辺を散歩したことがなかったので、歩いてみることにした。背広のサラリーマンに混ざって歩いていると「パタゴニアに行ったことがあるのか?」と明らかに人懐っこそうな中年男性に声を掛けられた。私がpatagoniaのTシャツを着ていたからだろう。行き先が一緒だったので(もっとも、私に行き先など無かったのだが)、10分ほど一緒に歩きながら、さまざまなことを話した。
彼はかつて貿易関係の仕事をしていたらしく、南米、アフリカなど、幾つもの国を訪れたことがあるそうだ。英語も流暢に話している。私が旅を始めたばかりだと話すと、彼は迷いなく南米を勧めた。パタゴニアにはまだ行ったことがないと言う。彼の話を聞きながら、私はいつか自分もその場所に行けるだろうかと、遥か遠くの旅を思い描いた。台北からいくつの街や国を巡って辿り着くことになるのだろうか、考えてみても無駄であった。
夜はランニングや学生で賑わう近代的なスタジアムは、今は小さな子供が数人遊んでいるだけであった。余分な荷物を送った郵便局周辺も歩いてみる。古びた集合住宅の壁には、不動産の広告が壁一面に大きく貼られていた。
一万歩という距離は、旅の散歩の中では軽々とこなせてしまう。夕方にもならないうちに、電気の消えた、誰もいない家へと帰ってきた。
シャワーを浴びてから、出発の準備を始めた。今夜の便で桃園国際空港を発ち、シンガポールを経由して、3日の朝にジャカルタへ到着する予定だ。広げていた荷物をひとつひとつバックパックに詰め込む。久しぶりの出番というのに、バックパックは変わりなく、静かに出発の時を待っているようだった。私と言えば、あの頃のような極度の緊張はもうなかった。むしろ、新しい街へ向かう期待が勝っていた。インドネシアはどんな国なのだろう—想像するだけで、少し胸が弾んだ。
陳さんは17時頃に帰ってきた。すぐにダイニングデーブルについた我々は、最後の晩餐を始めた。ジャーキーやピーナッツをつまみながら、いつもの玉山を飲んだ。「台湾はどうでしたか」と陳さんが言って、私はこの3週間の台湾での日々を思い出すままに話した。食堂、屋台、公園でのびやかに過ごせること、原付バイク、騎楼、図書館、中正紀念堂、中山地区や西門地区。主に散歩の話だったが、「それは良かったです」と和やかに陳さんは私の話を聞いてくれた。
作り置きの水餃子を食べ始め、もう一杯、玉山をもらった。陳さんが若い頃のことを話してくれた。ふだんは口にしないような話もあって、私はそれが嬉しかった。頬を赤くした陳さんは、「人というのは、運と命こそが大事だ」と言った。「志があれば、その道は通じる」とも。そう言って、何度も陳さんと杯を合わせた。スローモーションにしたいくらい、その時間は幸せだった。感謝の気持ちと、この時間が終わってしまう寂しさで、僕の胸はいっぱいだった。
「私はとても運がいいと思います」ふとこぼれたその言葉に、声に出した瞬間、妙に納得がいった。その刹那、すべての壁に私の声の響きが吸い込まれるのを、ただ待った。陳さんとの出会い。台北での3週間。全てに感謝するには、この沈黙が必要だった。
お世話になった。
18時半になったチープカシオの腕時計は、そろそろ出発だと私に言った。水餃子の残りのスープを飲み干して、出発しますと陳さんに言った。そうですかと言った陳さんの表情からは、少し寂しさが滲んでいた。私は心を決めた顔をしていたと思う。
あえて一呼吸おいて、佇むバックパックをゆっくりと持ち上げた。背負うと身体がずしりと沈んだ。この重みがまるで、これから向き合う志そのもののようだった。
開けるのにコツのいる玄関の扉。陳さんに何度も感謝を伝えるが、陳さんは「あなたが気にすることじゃない」と答えるだけだった。すでに外は暗くなっていた。階段を降りる。アパートの門扉を開けて、陳さんの顔を見た。それが最後だ。
街灯の光が彼の潤んだ目に反射していた。「無事に日本に帰るように」と一言絞り出すように陳さんは震える声で言った。大きくて肉厚のある暖かい手が、私の頼りない長細い手を包んだ。大きな約束のようなものが、込められた気がした。無事に帰るまじない、そんなものが渡された。
旅を続けること。そして日本に無事に帰ること。私ひとりの旅だったはずが、陳さんの想いも背負っているような気がした。
迷うこともなく、台北中央駅で桃園空港行きのメトロに乗り換えた。窓から見える景色は、すっかり私の馴染みの景色になっていた。まだ公園では子供達が遊んでいるだろうか。夜市ではきっと、夕食を楽しむ人たちが賑やかに話しているだろう。見慣れた景色を、心に焼き付けた。忘れないように。また思い出せるように。陳さんの笑顔も、ソファも、空気も、餃子も、匂いも、あのドアの重みすらも、全てを。
台湾市内を離れるにつれて、少しずつこの国を離れる準備が整っていった。次はジャカルタ、インドネシアだ。どうなるのか、期待と興奮が胸に広がった。なんて旅人は勝手なのだろうか。
酔いが回ってきたのか、空港ターミナルを歩く足が、やけに一歩一歩確実に運ばれているのを感じた。
231102 Taipei Taiwan

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