すでに6時には目が覚めていた。ゆっくりと身体を横に傾けると、シーツの擦れる音と共に、壁一面の窓が見えるようになった。早朝にも関わらず、僅かに車やバイクの煩さが街に響いていた。時計が7時半になるまで、慣らすかのように、横になったまま私は起き上がらなかった。もう台北にはいないのだ、ジャカルタにいるのだという実感が沸々と湧いてきていた。
ダブルベットから起き上がって、広々としたバスルームで顔を洗った。そういえば、太陽はどの位置にあるのだろうと生地の厚いカーテンを開けて、ベランダから空を見上げた。地平線が霞むほどのスモッグの隙間から太陽のおおよその位置が分かった。限りなく北に近い方角に太陽は位置していた。はじめて赤道を越えたのだ。
私が起きてきたことに気づいたメイドのアルムが「Breakfast?」と訊いた。「うん、ありがとう」と伝えると、4種のフルーツが丁寧に盛られたプレートがテーブルに用意された。オレンジ、パイナップル、ドラゴンフルーツにパパイヤ。私はこの生活から抜け出せるのかすでに心配になっていた。
併設されたジムがあると言うので、久しぶりに形式的な運動をしに行った。16階にあるプールサイドを横切り、屋外ガーデンの水やりをする係員と和かに挨拶をした。四方をガラスで囲まれたジム施設には、様々な器具が揃い、すでに数人がトレーニングの最中だった。ランニングマシンを使って、5分/kmの速さで走る。しばらく酷使していなかった心肺が、苦しそうな収縮をし始めた。5kmほど走ったところで、息が続かず、切り上げることにした。水やタオル、バナナなどのフルーツが用意されていて、使ったタオルを、バスケットに放り投げた。随分柔らかいタオルで、それだけで使うのは憚られた。
昼頃からVの友人のいるレジデンスに向かった。ヒュンダイのセダンが車寄せまでやってきて、Vと一緒に乗り込んだ。窓から見える景色はすでに1km先が白く霞んでいる。2km先なんて見えたものでなかった。ジャカルタは特に公害がひどいため、車のナンバーによって道路を通行可能な曜日が決まっていると横にいるVは言った。EVは曜日関係なく走行できるから、今乗っているセダンはEVなのだそう。ちなみに、トーマスさんにはトーマスさん用のEVがある。もちろん、別の運転手付きだ。
交通量の多い幹線道路を走り、しばらくして友人のレジデンスにやってきた。30階はあるだろう長細く、全てがシンメトリーな建物が中央の庭を囲んで3棟聳えていた。庭には20m四方ほどのプールがあって、レジデンスには当たり前に備わっているよとVは言った。
エントランスで待っていたが、約束の30分後にVの友人、エミリが彼氏のエクと一緒にやってきた。インドネシア人タイムというのがあるらしい。Vとエミリは2人の用事に向かうと言って、私はエクと2人で近くにあるお店で昼食とした。肉団子の入ったスープに袋麺の麺。揚げた鳥皮が散らされていた。値段は200円ほどだ。昼も遅いため、客は私とエクしかいない。扇風機だけでは、耐えかねる暑さの中、この単純な美味しさが沁みた。エクの茶色に染めた天然パーマは時間が経って、毛先だけになっている。会ってから数分の関係だが、穏やかな時間だなと、滲んだ汗を冷ましていた。歳は私よりも1,2つ下だったが、いいよいいよと言う彼にご馳走になってしまった。
近くにあるモール(ジャカルタは日本にあればずいぶん有名になりそうな巨大なショッピングモールばかり)を冷やかしに歩いたり、屋外でやっていた車の展示会を覗いた。地元の車好きが自慢の愛車を展示しているような会だったが、まさかジャカルタでA80型のスープラが見られるとは思ってもいなかった。エクはグラフィックデザインの仕事をしていて、日本のゲームが好きだと言う。いつか日本のゲーム会社で働くのが夢だと、少し照れながらも語った。「働くのが夢だ」と言ったとき、日本が、誰かにとっての憧れの場所であることに、私は気づかされていた。
同じくらいの背丈の彼が、階段を駆け降りていった。メトロ駅へと降りたところで、モナスタワーという場所へ向かう。東京で言うスイカのような交通系カードが必要だが、エクがあげるよと、財布に入っていた数枚あるうちの1枚を私に渡した。
車両アナウンスがとても濃い男性の声で、駅名を注意深く聞いていなくても、自然と耳に入ってきた。車両は新品のような綺麗さだ。ブルーのプラスチック椅子は、冷房の風を吸い込んでよく冷えていた。終点のスラマットダタン記念碑駅から、連節バスに乗り換えた。混み合った乗車口から、人と人の隙間を縫うようにして、エクがここだと車両と車両の間にある蛇腹部分におさまった。ここが定位置というのもよくわかる。通路に比べて、たしかに人が少なく、落ち着けた。
高い柵で囲われた敷地がモナスタワー周辺の広場のようだった。入り口の門からほど近く、広場の芝に、歩き回った疲労感を投げ捨てて、2人で座った。ここから見えるトーチのような形をした塔がモナスタワーだ。上部の黄金は本物の金と言われているんだとエクが説明する。ここがセントラルジャカルタの憩いの場なのだろう。ちょうど、台北の中正紀念堂のような広さの広場で、子供を連れた家族や、同じく芝に座って話す人々が目立った。建物が視界に入らない、ひらけた空を久しぶりに見上げることができた。
少し経つと、エクの呼んでいた、2人の友人もやってきた。タタとフランスと言って、大学の友人らしい。4人揃ったところで、コタトゥアという観光場所に向かう。バスに乗り込むと、さっきは目に入らなかった注意書きが目についた。タバコ禁止の表示の隣に、ドリアン禁止のマーク。なんともインドネシアらしい表示だ。
コタトゥアはセントラルから北に上った地域で、オランダ統治時代の建物が残る。中央広場のような場所ではバンドの演奏があり、多くの人は地べたに腰を下ろして、大合唱を始めていた。私は、3人からの質問に、答えるので忙しかった。彼らがネットで見つけた日本文化を、私を通して検証するのだ。自動販売機やラーメン、電車の混み具合から仕事や恋愛文化まで。私にとっては、経験不足で説明しきれないような質問もあったが、エクもタタ、フランスも満足気に話を聴いてくれた。
夜食はエクのレジデンスに戻って、中庭のベンチスペースでサテとフライドチキンを食べた。サテは地元の屋台のようなところで、袋にまとめてもらって、フライドチキンはインドネシアにあるチェーン店からテイクアウトした。
店から出た時には、雷と共に土砂降りの雨が降っていて、所々欠けや穴のあるアスファルトには、雨水が小さな河や滝を形成していた。ずぶ濡れになりながら夜食を抱えて、4人で走って戻ってきた。雨の中、思わず声を上げて私は笑っていた。
食事も終わると、日本のゴーストで何が一番怖いかと、結構真剣な様子で彼らに訊かれた。そんな質問を、想定したこともなかったので、戸惑いながらも貞子さんなんて有名なお化けを答えてしまった。なんでそんなことを聞くのと笑うと、インドネシア人あるあるの質問だと3人は揃って言う。彼らはかなり盛り上がっているが、残念ながらお化けに興味を持ったことがなかった私は、そんなお化けもいるんだとインドネシアのお化け話を聞いていた。
気が付けば、夜も深くなる時間だ。どうVの家に帰ろうかと尋ねると、送るよと3人は揃って答えた。バイクタクシーで帰れば大丈夫だと彼らに言っても、いやいやUberを呼んで送ると聞かない。Vの家に帰るまで、付いてきてくれるらしく、やってきたSUVに皆で乗り込んだ。
後部座席に座った私は、少し疲労の漂う車内で、ビル群や屋外広告の光を静かに目で追っていた。3人も静かにそれぞれの景色を黙って眺めている様子だった。
Vの家周辺に停められたSUV。「ありがとう」とエク、タタ、フランスとそれぞれ拳を合わせた。
「インドネシアで困ったことがあれば気にしないで、伝えてよ」と3人は言ってくれた。
別れてから、人通りの無い歩道を歩いた。昼から沢山彼らから与えられてしまった。家路につきながら、私は贅沢な人だなと、しみじみと思った。ドアマンは私の顔をすでに覚えたらしく、特に警戒もせずにエントランスを開けてくれた。
もう1時を過ぎていた。深夜を過ぎて寝るなんていつぶりだろうか。身体が疲れている。ベットに入るとすぐに眠りについた。もう窓から照る街の灯りは気にならなかった。
231104 Jakarta Indonesia

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