Notes photos and somethin bout this Big Circle

231030 Taipei Taiwan

台北生活が馴染んできていた。朝インスタントのコーヒーを飲みながら、鉄格子の付いた窓から前屈みに空を覗いた。どこへ行こうかと決めて、玄関のドアを閉める。目的地が東西南北のどこに位置するのか分かれば何も見ずに歩いていけた。近くの遼寧街夜市の通りで昼食を取れば、屋台の女性は挨拶してくれた。ただ同時に、新しさというものも独りでに消え去ってきていた。最初は、なんなのだろうと初めて味わう心地に困惑したが、この気持ちはやはり新しさの消滅だと解った。

1月初旬までの旅路が決まってきていた。なるべく予定を決めずに、各地を心のゆくままに旅したいという思いはあった。しかしながら、旅の開始と共に、ベトナムとインドでは知人との用事ができていた。どちらも1月の初旬と中旬に到着しなければならないため、それまでは旅路をその2つの予定に合わせるべきなのだ。

事前に旅路を決める事をまだ前向きに捉えられないが、悪いことだとは思っていない。これからの旅路というものを、私の旅の練習というか、訓練のようなもの。そんなものとして捉えることもできていた。ふと1月に訪れることになるインドが本当の意味での旅のスタート地点のような気がしていた。

台北101に向かって、そばにある象山まで歩いた。真新しいガラス張りの建物に囲まれた一角を抜けると、象山の登山道入り口が見える。近くにあるオフィスのサラリーマンが昼休憩にあたりを散歩していた。山頂までの中程に位置した展望台。そこから眺める台北の街と台北101を写真に収めて、あっさりと引き返した。ここから山頂まで、まだかなりの量の階段を登るらしく、私は心と身体の準備ができていなかった。

付近のショッピングセンターでは、日本市なるものが催されていた。平日にも関わらず、なかなかの人混みだ。気になった私は、迷うことなく一続きのブースの並びを興味深く眺めた。日本酒、和菓子、出汁、味噌汁。焼きそばの屋台に出会った時だ。日本食を欲していると身体全体で自覚した。旅に出てから、台湾という比較的馴染みのある土地の食べ物だったということもある。日本食を恋しいと微塵も思っていなかった。いざ彼らを目の前にしてしまった時の動揺というものが隠せなかった。来るものじゃないなと、その場から逃げるような早足で通り過ぎた。

台北101から北西に歩くと、武道館に雰囲気の似た國父記念公園にやってくる。私のチープカシオは16時50分を指していた。そろそろ門番の兵隊が規則正しく交代する衛兵交代式の時間なのだ。残り10分経てば見えると、中央に建つ記念館に入った。軒反りの正面玄関から背の高いコンクリート造りのホール。交代式を待つ人のざわめきが、冷えた建物内の隅々まで響いていた。吹き抜けのホールで行われる交代式を、2階から高みの見物とした。兵隊は几帳面に動きを合わせた。一定のリズムで回し投げた拳銃ですら、揃って宙に舞っていた。

交代が終わると、見物客の我々はみな揃って記念館を出た。スケートボードに乗る少年少女がいて、広場の噴水から水が高く噴き出している。変わることのない日常が映し出されていた。

家までの帰路の途中に、松山文創園なるものを見つけた。古びた工場跡を改装して、アーティストを中心とした店舗が集まっている。古くは煙草工場と紹介のボードに記載があった。コンクリートの冷たい西洋風の外壁に、カラフルなタイルや暖かな木々をあしらった内装だ。新たな場所として生まれ変わった様子であった。

夕方の涼しさが風に乗ってやってくる頃。帰路に着く原付バイクの群れに、運動を始める中年の男性女性達。公園などにはよく健康器具があるから、皆それぞれのやり方で運動をしていた。買い物袋を持つ人、迎えのバイク、屋台の提灯や看板の灯りが点る。学生の帰り道を通り過ぎた。夕方が好きだった。第二の1日の始まりな気がするからだ。

早めの夜食は惣菜の店で済ませた。住宅街によくあるひと区画の小さな公園を通って向かった。食べ終えてもまだ、子供達は簡単なプラスチック製遊具で遊んでいた。近くにある中学の校庭からは、バスケットボールが地面に弾む軽快な音が響いている。すでに辺りは暗く、街灯が通りを照らす時間だ。陳さん曰く、昔から夜まで遊ぶ習慣があるらしく、日本のように何時になったら家に帰るという習慣がないらしい。暗くなっても続く子供達の声が、冷たくなった住宅ビルの壁に跳ね返ってこだましている。

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