次の予定は順にバリ島、シンガポール、そしてクアラルンプール、マレーシアとなっている。順路の設計は、次の空路や陸路の手を打ちやすいこと、費用等々踏まえて決めている。あとは、体力。毎回毎回、新しい街を周り続けるには、それを吸収できるだけの体力を保てていなくてはいけないのだ。まあ、今後の旅でやり方は変化していく気もしている。今のところ、急ぐことはせず1つ1つの街に長く滞在するのが身体に合っているようだった。宿の通りの一本隣に、Mi Ayamの屋台があり、昼食を取る。今日まで気が付かなかったが、近所のエリアには地元の人々が通う食堂が多いらしい。制服を着た学生達が楽しそうに会話しながら、Mi Ayamを食べていた。
陽が落ちてきた頃に、バユから「おすすめのコーヒーショップがあるから連れてゆくよ」と連絡が来た。早朝、業者に相棒のバイクを返却したため、彼のバイクが迎えに来るのを宿で待つ。玄関からエンジン音の停止までの一連の流れが聞こえた。バユからの連絡の通知だ。ジョグジャカルタ最後の日に、ぴったりな男が迎えに来た。
古い屋敷が改装されたカフェ。屋根の土瓦は経年劣化でところどころ褪せて哀愁があり、浅緑色のペンキが塗られたドアや窓枠がクリーム色の塗り壁に似合っている。庭には、お客のバイクが8台ほど停めてあった。人気店らしい。店内に入ると、そよ風が優しく吹き抜ける廊下があり、テラス席にはヒジャブの若い女性達がお茶をしている。使い古された家具が並んだ店内には、船内で使われていたペンダントライトが吊るされ、店員のいるカウンターキッチンは古い学校の勉強机を再利用していた。バユと2人でカウンターに腰掛ける。彼は店員と楽しげに会話し始め、「何を飲む?」と私に訊いた。私はコーヒー、バユはブラットオレンジのカクテルと小洒落たものを注文した。バユが通訳しながら、店員の彼らと和気藹々と話す。バユによる私の他己紹介が始まり、私は旅をし、バイクを借りてビーチまで行き、Mi Ayamしか食べず、コーヒーはno sugerがいい日本人の男だと説明だ。なかなか興味をそそる適切な紹介だった。
カウンターに並べられた瓶詰めのシロップを使ったカクテルを「せっかく来たんだからスペシャルなものを飲んでいけ」と若いが髭を生やした店員にご馳走になった。生姜の効いた濃いめの茶葉と合わせたスパイスカクテルは、日本人では出せない味の面白さと美味しさがあった。
ちなみに、バユは現在20歳と思ったよりも若い。店員とで、年齢当てゲームが急遽開始され、お前は若く見られるぞとか、お前は中年に見えるぞだとか小馬鹿にしながら、私を含め皆の年齢が判明したのだ。年齢を当てるだけで喜ぶ我々は国籍関係なく、とても単純らしい。
「なぜそんなに旅を続ける予定なんだ」とバンドTを着た背の高い店員が訊く。何が目的になっているのだろう、妙に私は考え込んだ。彼らは興味津々に回答を待っている。なぜだろうか。ジョグジャカルタに到着した時に感じたあの寂しさや心細さを思い出してふと「人を見たくなった」と声に出した。
「遠くの国にどんな人がいるのか。彼らがどんな生活をしているのか眺めたくなった」と続ける。私の話をカウンターにいたお客も含め真剣に訊いてくれていた。プラスチックのライターで火のつけたバユの持つタバコの煙が、ゆらゆらと流れるように宙に舞っている。
楽しげに話している彼らの顔を順に眺めた。「私は人が見たいのだ」。
こんなに素敵なコーヒーショップが近所にあるなんて知らなかった。「早くここに来るべきだったな」と言ったバユに、「あのコーヒーショップにいなければバユとも出会うことがなかったよ」と伝えると、「確かに」と私たちは笑った。
そろそろ出ようか。店員全員みんなと「Terima kasih」と握手して、店を後にした。
バイクのタンデムシートに跨った。夕食を一緒に食べようと広場にある屋台へバユがバイクを走らせる。軽快に鳴るエンジン音と、生ぬるくなった夜風が不思議と心地よい。「バユよ。日本に来たらガイドするからな」大きな声で喋りかけた。「これを返さなきゃと思うなよ。違うからな、ただやりたいだけだからやっているんだ」バユが大きな声で答えた。
到着した屋台にはゴザが用意され、広場に敷いて店内から運ばれたMi Ayamを食べる。他の客もゴザの上でMi ayamを食べながら談笑している。きっと地元の彼らからしたら、何でもない日常の景色なのだろう。ただ、私にとってはジョグジャカルタ最終日に友人とMi Ayamを食べたかけがえの無い景色になった。
ぽつりと落ちてきた雨粒に気が付くと、すぐに土砂降りに変わった。また店内で雨宿りをする。バユと2人でMi Ayamを食べると、いつも土砂降りになるらしい。雨が止むのを待っている間、バユが今気になっている女の子の話を始めた。3ヶ月もチャットを続けているのだが、なかなか興味を持たれないと嘆いている。「大丈夫だ、いけるぞ」なんて無責任にも彼を勇気づけた。時折、話を聞きながらも雨音に耳を傾けると、ザーッという弾ける音に包まれる。今私は友人と雨宿りをしているのだ。いつの間にか、数日前には無かった居心地の良さがこの場所に存在していた。
雨は30分ほどで止んで、行こうかと2人で店を出る。バユが私をホステル前までバイクで送る。見慣れた宿の玄関。これが最後だ。この場にやってきた時には、誰も何も知ることが無かったのに、今私はバユという男のことを知っている。また雨が降り始めていた。
「Thank you」とハグをした。「気をつけて旅をするんだぞ」コーヒーショップで声を掛けられた時と変わらぬバユの笑顔だ。
バイクのエンジンを掛けて、彼は走り出した。エンジン音がどんどんと強くなる雨音に吸収されていく。バイクが奥の路地を曲がるまで、彼の姿が消えてゆく瞬間まで、私はじっと行先を見つめていた。
バユよ、私と出会ってくれてありがとう。
赤く光るテールライトが見えなくなった瞬間、ここはやけに静かな路地になった。
231115 Yogyakarta Indonesia

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