日曜の朝5時。ビル群の隙間から覗く東の空に微かに太陽の気配を感じる。ダブルベットに別れを告げて、昨晩荷造りしておいたバックパックを背負った。久しぶりに君との移動だ。目の前のスラマットダタン記念碑一帯では、すでに日曜市の準備が始まっている。人々は折り畳まれた屋台やパラソルを路上に広げ、せっせとプラスチック製の椅子を並べていた。ブイの呼んでくれたバイクタクシーがやってくる。私は背負っていたバックパックの肩紐を、もう一度きつく締め直した。
パジャマ姿のまま見送りに出てきたブイに「ありがとう」と伝えて乗り込む。こんなに沢山貰ってしまった。空港でのピックアップから、豪華なジャカルタ生活、エク達との出会い、アルムの手料理。これほど多くの思い出を作ってくれたのに、私は彼女に、出会った人達に何も与えられていない。バイクが加速すると、バックパックの重みで身体が後ろに揺れる。ジョグジャカルタ行きの列車が発車するガンビル駅へと向かった。
改札ゲートで係員にチケットを見せ、プラットフォームへと出る。すでに停まっていたジョクジャカルタ行きの列車に乗車し、チケットに記載のある6号車シート30に腰掛けた。隣の席にバックパックを置く。私の座高ほどあるバックパックに寄りかかりながら、朝日に照らされたジャカルタの街を窓から眺める。列車の揺れと共に眠気を感じたところで、私はすぐに眠りについていた。
目が覚めると、窓の外は地平線まで広がる田んぼや畑の景色に変わっていた。田園風景に癒されるのは、私が日本人だからだろうか。広々とした土地に点在する家々は、都市部にあったような重々しい柵や扉を必要としていないようだ。頭上の空には、久しぶりに見る青さが戻っている。田んぼに通る一本道を、1台のスクーターに乗って移動する3人家族。彼らの幼い頃の記憶は、バイクからの景色になるんだろうなと想いを巡らせた。
農作業をしている人々は鍬で土を起こして、のそのそと歩く牛は繋がれた犂で田んぼを耕す。なだらかな丘が続く地帯に列車が入ると、美しく整えられた棚田が突如現れた。風に靡く新緑の稲穂が海のように、波打っている。チケットに記載の到着予定は13時ごろ。ジョグジャカルタはまだ遠いようだ。
列車の揺れに合わせながら、私はこのメモを書き上げている。名も知らぬ、立ち入ることも、喋ることもない景色や人達を窓から眺めて、通り過ぎていった。
-どこかの村の名前も知らぬ子供達へ-
旅の何が楽しいかと聞かれたら、車窓から見える景色だと私は言うだろう。どこかの村の子供たちが、私の乗る列車に向かって満面の笑みで手を振っているのだ。君たちは知ることもないだろう、その笑顔が異国人の私にしっかりと届いて、微笑ませてくれていることを。
およそ6時間半の移動が終わり、ジョグジャカルタ駅に到着した。多くの乗客が立ち上がって、荷物をまとめている。私も横に座っていたバックパックを背負って、他の降車客と共にホームへと降りた。皆それぞれのいく先へと歩みを進めている。ジャカルタでは気が付かなかったが、ちらほらと西洋人のバックパッカーもいるようだ。彼らはペアだったり、グループで移動している人が多い。ホームに出た私は独り左右を確認して、私はどちら側の出口に出ればいいのだろうと考えていた。
事前に予約をしていた宿の位置を確認すると、駅から距離があるようだ。どうして向かおうかと駅を出ると、熱心なバイクタクシーの勧誘がやってくる。彼らの言い値よりも断然安いGojekのアプリで、とりあえずバイクタクシーを手配した。
空に聳えるような高い建物は駅正面にあるモダンなホテルのみ。ジャカルタの都市とは随分と景色が変わったなと、辺りを見回しながら思う。呼んでいたバイクタクシーがやってきて、ヘルメットを被る。背負ったバックパックと共にタンデムシートに跨りながら、自分がどの位置にいるのかも分からない新しい街ジョグジャカルタを10分ほど移動した。平屋の一軒家が立ち並ぶ、閑静な住宅エリアに入ると、ここが私の宿らしい。私を下ろしたバイクタクシーは、また新しい乗客を乗せるためすぐにアクセルを踏み込んだ。バイクのエンジン音が遠のいてゆく。
小綺麗にまとめられたキッチンスペースと、各4畳ほどの1人部屋が設けられたゲストハウスだ。家政婦の女性が不慣れな英語で、部屋に案内してくれた。とりあえず、頻繁に使うもの、洗面用具などを部屋に広げて、早速街へと出ようか。
お腹も減っているので、友人におすすめされていた食堂へと向かう。たまたま、道中にあった立派な造りの建物が気になり、それがTamam Sariという有名な宮殿であるのを建物内を徘徊しているうちに気がついた。急に英語の会話が聞こえ始め、西洋人や観光客が見え始めた。正式な入口なのか、そこにはしっかりと入場券の販売がされており、列に並んでいる方々が伺える。うっかり私は裏口のような場所から入場してしまったらしい。
大きく聳える2株のガジュマルがある広場の近くにその食堂はあった。すでに14時を過ぎているので、他に客はおらず。店内に入ったはいいが何も分からず困っていると、店員の女性がはっきりとした英語で接客を始めた。数種類の惣菜が置いてあり、そこから選ぶ様子だ。ここにも惣菜シリーズがあるのかと嬉しくなった。惣菜を3つ、照り焼きのような骨付き肉を注文する。値段は27,000ルピアといい値段だ。しかし、こんな地元客しかいないような食堂に、流暢な英語を話す店員がいるなんて驚いた。有名なお店なのだろう、注文した惣菜達がご飯に乗ってやってきた。確かにそれぞれの惣菜の味付けは丁度よく、お腹も随分満足した。
EnakとKenyangを店員に笑顔で伝えて、店を出る。先ほど通ったガジュマルの広場で久しぶりに見る青空を見上げた。斜めった陽が細かったり太かったりするガジュマルの幹の束、外に溢れ出している緑の葉を照らしている。子供たちはかけっこをしていて、腰掛けている夫婦がおしゃべりをしている。
そして、なんなのだろうか、この気持ちの弱さは。これは不安なのか、とても心細いじゃないか。
そうか、この旅を始めてから私は幸運にも、常に知り合いの場所に居候をさせてもらっていた。この本当の1人の旅という状況が、今日初めてこの心身に起こっているのだ。この状態がはじめてなのか、そうか。とにかく歩かないと、意識的に口角を上げてもみる。空気が暑いぞ、なんだこの感じたことのない孤独感は。
カフェを見つけて、「コーヒーはある?」とレジにいる若い3人組の店員に訊くと、「ここはチョコドリンクのお店だぜ」と1人が英語で応える。「美味しいぞ」ともう1人の店員が付け加えた。彼らは陽気なようだ。
「どこから来たの?」と3人が興味津々に訊いてくれる。「日本からだよ」。
「Ohhh, Tsubasa!!」そうキャプテンのことだ。さすが、よく知っている。
「コーヒーならこの通りのあっちにあるから行ってみな」と3人は通りの奥を大袈裟に指さして教えてくれた。指示に従って、その方向へまっすぐ歩くと確かにあった。入口にはスクーターやバイクが駐車されている。ここも若い店員がお店を切り盛りしている様子で、慣れた様子で英語を話すからまた驚いた。10,000ルピアでアイスコーヒーを注文する。
お店全体が見える入口付近の椅子に座り、コーヒーがやってくる。うまい。やっぱりインドネシアのコーヒーうまいぞ。鼻から大きく呼吸をして、落ち着きを取り戻す。店員は1人若いのに手際よくやってくるお客の対応をしている。大きな扇風機が低い音を立てて首を左右に振っている。バイクが行き来する音が聞こえる。さっきまであった心の重たい熱がゆっくりと冷えてゆくのを感じる。ブロックを並べたカウンター、艶のあるタイルの床。そうそう、私にはコーヒータイムが必要なのだ。この時間を大切にすれば大丈夫だと自信が戻ってくる。「Thank you」と若い店員に伝えて、店を後にする。よし、メインストリートを眺めてみよう。
ジョグジャカルタはジャカルタと比べて、陽が傾くと涼しい気がする。リキシャの男性に、よく声をかけられる。なかなか高い値を言われるから、そんなので使うわけないだろうと微笑みながら彼と話し続けてみる。私に話し相手はいないのだ。リキシャの彼は強気に誘ってくるが、いやいや私はこの脚を使って歩くんだと、自らの脚を指さして歩くジェスシャーをすると「ストロング!バイバイ!」と陽気に返してくれる。悪い奴じゃない、何だか気分がよくなっている私が居る。
久しぶりに眺める青い空。夕焼けのオレンジ色とまだ頭上に残る青。青空を眺められるのが、こんなに嬉しいのだと初めて知った。マリオボロというメインストリートには、商店街のようにお店が並び、観光用の馬車が遮眼革を着けて道の脇に待機している。随分な賑わいを見せていて、家族やカップルがショッピングを楽しんでいる様子だ。沢山の木琴を並べたバンドが軽快な音を奏でていたので、座り込んで、聞き入っていた。多重に連打する木琴の音に合わせて、子供達は踊って、隣に座る中年の男性は気ままにゆらゆらと身体を揺らしている。ふと息を大きく吸いこめていたことに気がついた。
北へとストリートを歩き続けていると、気がつけばジョグジャカルタ駅まで辿り着いていた。なるほど、こういうふうに繋がっているのかと頭の中で地図が出来上がる。せっかくだから、ジョグジャカルタ空港行きの電車はどのように購入すればいいかと窓口に訊きに行く。チケットはアプリ登録だと係りの女性から冷静に伝えられる。気軽に窓口で買いたかったが、仕方ない。結局現代の旅には、スマホが必要らしい。
宿に帰ってくると、チェックインした時にはいなかったアビーという男性が挨拶をしてくれた。この宿のオーナーらしいが、随分と若い気がする。話すと同級生だと分かり、日本語の勉強もしているらしい。自習のみで習得したとは思えない流暢な日本語を話すのに圧倒される。来年2月には日本の朝日奨学金という制度で、2年間東京の青山で働く予定だと恥ずかしげに、ただ誇らしげに彼は言う。
シャワーを浴びてダイニングスペースでくつろいでいると、アビーが彼女とバイクでコンビニに行くから、何か買ってこようかと訊いてくれる。朝食として食べられる菓子パンをくれないかとお願いすると、大きな菓子パンを2つ持ち帰ってきてくれた。
今日ジョグジャカルタを歩いてみて、歩いて回るような街でないのが分かった。この街を徒歩で移動を続けるとかなり苦労をするだろう。街中のバイク量を見ると、バイクでの移動が適切そうだ。毎度Gojekを頼むのも費用が嵩むので、アビーに尋ねて明日からレンタルバイクを頼むことにした。驚くほど早く手配してくれて、明日の朝には宿にレンタル屋がやって来るらしい。ずいぶん手際が良くて助かる。
私は明日からバイクを手に入れるのだ。
231112 Jakarta Indonesia

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